千里山神社は大正15年(1926年)、京都・伏見稲荷から末広大神をお迎えしたのが起源といわれています。その後、佐井寺の氏神「伊射奈岐命(いざなぎのみこと)」も合祀され、氏神として地域と深く結びついた神社です。
社殿の左手には「春姫大明神」と刻んだ自然石の碑が立っていて、その前には吉本興業を起こした吉本勢が寄贈した石製の蝋燭(ろうそく)立てがあります。
社殿より一段高いところに、上水道の配水池(水源地)があります。吹田市の水道部で管理しているのですが、元は千里山住宅開発と同時にできた配水池でした。夏は冷たく、冬は温かく、水の旨さは当時の大日本麦酒(現在のアサヒビール)のビールの旨さとともに、近隣に鳴り響き大阪の人々を驚かせていました。
千里山には北摂山系、箕面台地、千里丘陵をくぐり抜けた地下水があちこちで湧き出ています。その中でも吹田の三名水と呼ばれている「垂水の冷泉「佐井の清水」「泉殿の霊泉」が代表的なものとされています。千里の大森林をくぐり抜けた地下水が湧き出る垂水の冷泉は、どんなに日照りが続いた時でも水が涸れることがなく、無病息災・長寿の神泉とされています。
水源地は千里山の最高峰で、360度の眺望があり、伊丹空港へ降りる飛行機や、箕面の連山、生駒の山垣、大阪城の天守閣、尼崎の海岸、淡路島など四季折々の姿を楽しむことができました。
昭和32年(1957年)落慶の千里寺本堂は、関西大学が昭和天皇大嘗祭の建物(饗宴場=迎賓閣)の一部を譲り受け、講堂・武道館「威徳館」として使用していたものを、昭和28年(1953年)に移築したものです。この建物は、単層入母屋造り銅板葺き(平成4年に瓦葺きに葺き替え)で、大ホールやステージの一部、花模様が描かれた格天井、3基のシャンデリア・外灯が残っています。千里寺本堂は平成14年(2002年)、登録有形文化財となりました。
千里第二小学校旧木造校舎[復元](千里山・佐井寺図書館)千里第二小学校の旧木造校舎が、昭和4年(1929年)に建築されました。平成14年(2002年)に老朽化のため解体されるまで、吹田市内最後の木造建築の小学校校舎として、その姿を留めていました。平成16年(2004年)5月にオープンした千里山・佐井寺図書館の西館は、その千里山第二小学校の旧木造校舎のイメージを再現しています。旧校舎で使われていた教壇や階段の手すり、金具など、使用可能なものはそのまま使い、当時の教室も復元しています。玄関前の大正15年(1926年)と刻まれた石製の門柱や、楠や銀杏の大木が往時の姿を偲ばせてくれます。
千里山遊園は、大正10年(1921年)に「千里山花壇」として開園し、昭和25年(1950年)に閉園するまで人々に親しまれました。目玉は日本で最初といわれた飛行塔でした。昭和21年当時、飛行塔のほかに、サークリングウェーブ、子ども汽車、動物園などの施設があり、昭和22、23年には菊人形展も開かれました。この菊人形展が、後にNHK大河ドラマをテーマにし長く開催されることになる、「ひらかたパーク」の菊人形展のルーツです。
関西大学は、大正7年(1918年)公布の大学令によって大学昇格に必要となる校地を探していたところ、当時の北大阪電気鉄道の誘致を受けたこの千里山が、景勝地であり環境にも恵まれていたことから最適と判断。ここ千里山に関西大学の学舎が建設され、大正11年(1922年)に開校しました。
昭和30年(1955年)ごろ、「君の名は」で一世を風靡した佐田啓二と岸恵子が、関西大学で映画「亡命記」のロケを行いました。「君の名は」の二人を一目見ようと多くの人々が集まったようです。このロケが行われた野外音楽堂だった場所には、現在関西大学100周年記念会館が建っています。
関西大学簡文館は、現在の総合図書館が建設される以前は、長い間、図書館などの施設として利用されていました。設計者は昭和を代表する建築家の一人、村野藤吾です。簡文館内に博物館がオープンしたのは平成6年(1994年)で、本山彦一コレクション(元毎日新聞社主)を中心とした考古学および関連資料約1万5000点を収蔵しています。建物の横には市内最大といわれる株立ち9本のくすのきがあります。